昔、サンフランシスコに料理本専門の小さな古本屋があった。
初めて訪れた時、僕はバインダー式になったケーキの料理本を一冊だけ買い求めた。その時レジにいた若い女性が、僕が選んだ本を見て、「この本とてもいいですよね」と言った。本屋の人に選んだ本をほめてもらえたことが僕は嬉しかった。
「ここのお店はどんな方がオーナーなんですか? ほんとうにすてきな古い料理本ばかりでとても気に入りました」と僕が聞くと、「オーナーは私です」と、目の前にいる若い女性が答えた。
僕はびっくりして、「あ、ごめんなさい。そうなんですね」と言うと、「もともと、私の祖母が営んでいた古本屋なんですが、二年前に祖母が亡くなってしまい、続けられなくなったので閉店しようと思ったのですが、祖母が集めた本の蔵書を他に置くところもなく、それならと私がこの店を次ぐ決意をしたのです」。女性はうつむき加減でそう話してくれた。
僕はひそかにその女性に惹かれて、週に二三度は店を訪れるようになり、僕と女性は自然と仲良くなっていった。
ある日、女性がこう言った。「あなたが最初にこの店で買ったケーキの料理本だけど貸してくれないかしら。実はあの料理本は祖母がとても大切にしていたもので、あの料理本に載っているバナナケーキのレシピを書き写したいの。元気だった頃、祖母がよく作ってくれたバナナケーキだから、私も作ってみようとおもうの」。僕は喜んでその料理本を女性に貸してあげた。
それから数日後、店に行くと、貸していた料理本を女性は僕に返してくれた。それと一緒に茶色い紙に包まれたずっしりとした長方形のものがあった。「これが祖母のバナナケーキよ。あなたの分も焼いたの」と女性は微笑んだ。バナナケーキは甘くて、くるみの香ばしさがあり、とってもおいしかった。
古本屋はそれから一年後に店を閉めることになった。女性が結婚することになり、サンフランシスコを離れることになったからだ。それ以来、僕は女性と会うことはなくなった。
あの時に買った料理本は、今でも僕の手元にある。今日、僕は、くるみがたっぷり入ったバナナケーキを焼いてみた。一口かじると、あの時、食べたおばあちゃんのバナナケーキの味がよみがえった。僕は味わいを楽しみながら、あの若い女性は今頃どうしているのだろうかと思いふけった。
きっとこれと同じバナナケーキを、今でも焼き続けているのだろうと思った。